201 舞鶴城公園(甲府市丸の内)

桜に彩られた舞鶴城公園はこちらのページからどうぞ
舞鶴城は甲府駅の南東に位置します。舞鶴城への行き方はとても簡単です。まず甲府駅南口に出ると駅前ロータリーの東側に山交百貨店があります。その左側に東へ進むと道があり、50mも進むと城郭に到着です。甲府駅から北西の城郭までは徒歩で約2分。距離的にも近いので直ぐに分かることでしょう。ただ今回は城郭が最も美しく見える南側から入っています。
舞鶴城の正式名称は甲府城といい、築城は豊臣秀吉の命を受けた加藤光泰が着手し浅野長政、長幸の父子に引き継がれていきました。建設当初は甲斐府中城とか府中城と呼ばれていましたが、それが略式化され甲府城となり、更に江戸中期になると鶴が羽を広げた形に似ていることから舞鶴城という愛称が付けられました(ちなみに甲府という名称も甲斐府中が短略化したものだそうです)。舞鶴城は昭和31年に都市公園となり、現在は県の史跡指定になっています。さて舞鶴城公園の南側に架かる遊亀橋(写真左)を渡ると鍛冶曲輪が現れます。ただ明治政府による廃城政策により当時の面影は殆どなく、現在の鍛冶曲輪は庭園や管理事務所の建つ自由広場となっています。
管理事務所(写真左の建物)を左に曲がると議員会館や恩謝林記念館の建つ楽屋曲輪へと進みます。毎年4月上旬に行われる武田信玄公祭りの出陣式も舞鶴城で行われ甲府駅へと向かいます。武田信玄公役には俳優さんから抜擢され、渡哲也さん、館ひろしさん、宇津井健さん、辰巳琢郎さんと引き継がれ、2003年は渡辺裕之さんが演じておられました。
さて楽屋曲輪の手前まで行くと、右へと登る階段(写真左)が現れます。階段を上ると左手には武徳殿(写真中央)があり、右手には中の御門(写真右)を上がって二の丸へと続きます。武徳殿は警察御用達の道場でもあり、大人から子供に至るまで修練に励んでいます。
舞鶴城公園は桜の名所としても有名で、毎年3月下旬から4月上旬になると園内の桜がいっせいに咲き誇ります。一帯は一条小山と呼ばれる小高い山になっており、二の丸に立つと甲府市内の南側を見渡せます。
二の丸からは直ぐに鉄門へと続く階段が延びており、登っていくと本丸へと通じます。現在、本丸に存在するのは天守台のみで天守閣はありません。そこで浮上するのが、元々甲府城に天守閣はあったのか?という疑問です。なかったという意見は荻生徂徠の峡中紀行にでてくる、「城は櫓楼やひめ垣だけがあって、殿舎がない」という一文に依っています。ただこれは宝永3年(1706年)に書かれたもので、築後100年を経ているだけに確証とするには根拠が薄すぎます。その後の調査では様々な遺物が発掘されており、また、「豊臣家の普請で天守閣を造らなかった城はない」という観点からも天守閣は存在したという意見と対立しています。甲府城の天守閣については依然として謎が多く、これまで長期に渡り討議されてきましたが、あったともなかったとも確定できないでいるのが現状です。
鉄門の左には謝恩碑が建っています。山梨県は明治40年8月と明治43年8月に起こった大規模な水害により、数多くの死者と財産を失い疲弊し切っていたそうです。明治天皇は近従者を派遣され実状を調査するとともに、災害の復興にと皇室の山林を県に供与し、謝恩碑はその記念に建てられたそうです。総高30.3メートルの謝恩碑は大正6年12月から3年の歳月をかけて建てられ、その工費には9万9528円が費やされたそうです。建設から既に80年以上が経っていますが、現在でも舞鶴公園のシンボルとして屹立しています。
天守台(写真左)は謝恩碑の直ぐ東側にあり、その一辺は南北22メートル、東西17.8メートル。天守台で比較すると松本城の天守台より大きいそうです。天守台の上は反時計回りの回廊になっており、その北西部には「明治天皇御登臨之阯」の記念碑が建てられています。≪右の写真は天守台から西に立つ謝恩碑を撮影したもの。左の雲の下に写る茶色い建物が県庁≫
天守台からは東西南北360度の景色が広がります。≪写真は天守台より北側を望んでいます≫。甲府市は甲府駅を中心に南側の商業地区と、北側の住宅地区に分かれます。左端に写っている橋が甲府駅の南部と北部を結ぶ陸橋で、その下をJR中央線が走っています。陸橋の右側にある建物は山日新聞社。ほぼ中央のやや上側に写る森が武田神社で、その右背後に控える山が武田家の山城があった要害山。一帯は下府中、上府中と呼ばれ、現在は「古い府中」という意味合いから古府中という町名に変わっています。また、以前まで舞鶴城公園内にあった科学博物館は右端に写る愛宕山「こどもの国」へと移されています。甲府駅の北側は険しい山が連なり、その最北部は金峰山まで達し長野県と接しています。このため北部に大きい建物は余りなく、近年では甲府駅の北側を再開発する計画もありますが余り進展していないのが実状です。
建設当時には20haに及ぶ巨大な城も時代の変遷とともに破壊され、現在では内城を残すのみとなっています。しかし昭和43年に県の史跡指定を受け、平成2年からは発掘調査を兼ねた修復工事が行われており、総工費80億円を超す事業は礎石の紛失や、第2次世界大戦の不発弾が見つかるなど様々な障害を経て現在も整備が進められています(2003年5月現在)。商店街からは活性化のため天守閣の復元を望む声も上がっていますが、本当に天守閣があったのかどうか分からない中での計画には反発も大きく、歴史上の観点とあわせこれからの動向が気になるところです。
ここまで掲載したのは南東部だけですが、その他の区画についてはそのうちアップします(うーん、いつになるやら)。