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257 要害山と要害城跡(山梨百名山/旧跡) 甲府市上積翠寺町
要害山は甲府駅の約5キロほど北にある山梨百名山のひとつです。標高は787mと高くはありませんが、武田信玄の父である武田信虎が永正17年(1520年)に要害城を築いたことでも知られています。
要害山へ行くにはまず武田神社を目指します。武田神社は甲府駅の約2キロほど北にあり、県道31号を北進すると必然的に突き当たります。武田神社へ突き当たったら左へと曲り、更に約100mほど進むと伏見商店(駄菓子屋)の建つT字路へ突き当たるので右へと曲がります。
武田神社へ突き当たった場所から約900m地点(写真左)まで進むと分岐路が現れます。この分岐路は左が旧道で右が新道となっており、どちらへ進んでも同じ場所に出ますが道幅の広い右へと曲がります。更に約1.4キロ地点(写真右)まで進むと再び分岐路が現れます。これも新道と旧道でどちらに進んでも構いませんが、今回は道幅の広い左の道へと進みます。このころにはすでに要害山が正面に見えているはずです。
武田神社から約3.1キロ地点まで進むと「←古湯坊 要害→」と書かれた看板(写真左)が出てきます。要害山の登り口は要害温泉入り口にあるので看板に従い右直進に進みます(古湯坊は左に曲がって約700m。一本道の突き当たりなので抜け不可)。その約50mほど先で再び分岐路(写真右)となっているので今度は左へと曲がります(ここにも看板あり)。これが最後の分岐路となり、正面には既に要害山が大きくなっているはずです。
最後の分岐路を曲がると仲川に沿った道となり、約300mほど進むと要害温泉へ渡る「やさき橋」が現れます。要害山の登り口は「やさき橋」の直ぐ先にあるので橋を渡ります(「要害山→」と書かれた看板が出ています)。
やさき橋を渡ると直ぐに要害温泉へ突き当たりますが、登り口はその左手前で分岐しています。近くに駐車場はありませんが、要害温泉へ頼むと停めさせてくれるという話しを訊いたことがあります。なお要害温泉は信玄の隠し湯として知られる積翠寺温泉のひとつで、約3.1キロ地点の看板に出てきた古湯坊もそのひとつです(要害温泉の立ち寄り湯は11時から21時で700円)。[URL] http://www.yougai.co.jp/index.html
登り口の手前には要害山の石碑と要害城の概略を著した看板が立っており、山頂への遊歩道(写真左)はその石碑と看板の先から続いています。入口からやや急坂となっていますが頑張って登っていきましょう。
約5分も登っていくと分岐路が現れます(写真左、ブレてます)。ここには道標があり右へ行くと深草観音や武田神社へ抜けられるそうですが、現在は崩壊しており通行止めとなっているようです。
要害山の登り口から約15分も進むと右手に甲府盆地が広がります。ただ樹木の枝葉を通してなのでスッキリと望めないのがやや残念なところです。途中には土塁跡や、敵兵の移動を阻止するため斜面を上から下へと堀り崩したという竪堀跡(たてぼりあと)などがありますが素人目にはよく分かりません。
見える範囲はそれほど大きくありませんが、足下には竜ヶ池(農業用の人工池でルアー専用の釣り場としても使われています)や武田神社を見通します。
約30分も登っていくと門跡があり通過していきます。門跡といっても石積みの跡が僅かに残っているだけであり、素人目に判別するのは難しいかもしれません。
門跡から数分も進むと「不動曲輪」へと至ります。曲輪とは陣地や屋敷を建てるために作った平場のことを指しますが、不動曲輪という名称は江戸時代後期に建てられた武田不動尊に由来するそうです。
不動曲輪(武田不動尊)
不動曲輪は東西10m、南北40mほどありハッキリとした平坦地になっています。奥に進むと武田不動尊が祀られており、曲輪の先端に立つと甲府盆地を眼下に収めます。
登り口から約40分ほど進むと2度目の分岐路が現れます。ここには案内板があり、左へ進むと水場(1.5キロ)や深草園地(0.5キロ)へと続くようですが今回は寄っていません。なお同地点は要害入口と表記されており山頂までは約800mのようです。
分岐点から約2、3分も登っていくと要害城で最も堅固だったといわれる門跡が現れます。この門跡は両側に石垣が整然と積まれており素人目にも分かります。
全てを載せることはできませんが、ここから先は曲輪跡(写真上)や門跡が次々と現れます。跡地には区画ごとに看板が立てられており、なかには「大規模な跡地」という文字も見られます。ただ大規模といっても山城なのでどれも小ぢんまりとしており看板がなければ素通りしてしまう程度です。
傾斜の大きい場所では階段道になっています。それほど長い階段ではありませんが急登なので運動不足の身には堪えます。周囲は要害山より高い山が囲んでおり眺望的には余り優れません。時おり樹木の隙間を通して対面の山を望みますがかなり単調です。
登り始めてから約1時間ほどかかったでしょうか。最後の門跡(写真上左)を抜けていくと一気に前方が開け山頂へと到着です。かつて要害城の本丸となっていた場所も今は単なる空き地ですが、周囲に巡らせていたという土塁跡が今でも残り僅かながらも当時の面影を残します。
信虎が躑躅ヶ崎館(現在の武田神社)の詰めの城として築いた城も、実践的な攻防となると1度もなかったようです。ただ築城の翌年に今川家の福島正成が1万5000の兵で甲斐へと侵攻。武田信虎は僅か2000の兵で対抗し大勝利したそうです。ただその際に飯田河原まで攻め込まれたため躑躅ヶ崎館が危険になり「大井」夫人を要害城へと移したそうです(飯田河原古戦場慰霊碑が飯田町に建っています)。信玄はその際に同地で産まれ、主郭部(東西73m南北22m)の北西部には山梨百名山の標柱と並び「信玄公誕生之地」の石碑が建っています。※写真右は背後(北側)の太良峠。
山頂の東端には東側の門跡があり、その直ぐ先には堀切跡が残っています。堀切とは尾根を削った跡地で、道を狭くすることにより大量の敵が背後から侵入することを防いだそうです。堀切跡から先(東側)は下っており、ここを下ると岩堂峠や南東にある兜山913mへも行けるそうです。
1月の半ばだったため山頂での積雪は約20センチほどとなっていました。当日は登頂に約1時間ほど掛かりましたが、雪のない季節や健脚の人なら30分から40分ほどあれば登ってしまうのではないでしょうか。眺望的にはそれほどでもありませんが、歴史に興味のある人ならそれなりに楽しめるのかもしれません。
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